つかもとブログ

文章を書くことにしました。連絡先:tsukamoto.kanako@gmail.com/Twitter:@kanaco_t

28歳になりました

気がついたら28歳になっていました。

世の中は2017年、平成29年になり、SMAPは解散していました。

 

2016年が始まった頃、私は、転職したばかりで、仕事を一生懸命覚えていて、

ミャンマーに彼氏がいて、「結婚」というワードに敏感だったようです。(過去のブログ参照)

そして、2017年が始まる頃には、VTRを10本作り、日本で最も大きい舞台で仕事をして、

ミャンマーの彼氏とは別れ、多少フラフラしながら、1人を謳歌する日々になりました。

 

社会人になってからは、とにかく仕事が中心だった。

「塚本発表会」も、職場ではまったく理解されない「自分の面白い」を詰めた企画だったから、

何だかんだで仕事と結びついている部分はあった。

 

去年、やっと「仕事って楽しい」と思えるようになったから、

今年は、他のことも楽しいと思えるようになってみたい。たとえば恋愛とかね。

あとは、誰かと旅行に行きたい。1人旅は好きだけど。

 

少しずつ、人間らしい生活をしてみようと思います。

そんな2017年にします。

長電話

仕事の人と、夜の12時を回ってから長電話をした。

前半は仕事の話。後半は下世話な話。

考えることは苦しいけど、一緒に考えてくれる人がいるのは、

とても有り難くて心強い。

 

入社して、来週で1年になる。

1年で試合前のVTRを9本作った。

そして、来年。

1番大きい舞台が、10本目。

 

自分のためとみんなのために。

頑張ろう。

自分の仕事

迷い迷い迷い迷い迷い閃き迷い迷い迷い迷い迷い迷い迷い迷い閃き迷い迷い迷い迷い諦め迷い迷い迷い迷い閃き迷い迷い迷い迷い迷い迷い迷い不安不安不安不安不安不安反省

 

暇つぶしでいいから見てもらえますようにと願いながら

でもあわよくば誰かの心に届きますようにと願いながら

ずっと、悩んでいる

お金じゃなくて名誉じゃなくて

ずっと、面白いが欲しい

どうか上手くいきますように

69

 「69」という数字がある。きっとこの数字の読み方は、ある程度の年齢から変わってくるだろう。

 

 わたしがこの数字に隠された意味を知ったのは、小学校高学年の時だった。当時は、モーニング娘。が爆発的に流行っていて、クラス中の誰もがそれぞれ好きなメンバー、今で言う“推し”を持っていた。わたしは保田圭ちゃん推しだったので、一度、「保田圭ちゃんは、つんくと親戚で、だからコネでモーニング娘。に入れたんだよ」と友人に言われた時には、自分のことでもないのに、プンスカしてしまった。根も葉もない噂が小学生の間でも飛び交うほど、モーニング娘。は凄まじかった。

 そんなある日、クラスメイトのまどかちゃんが、学校の休み時間に、わたしに近づいてきて、こう言った。「なっちとつんくはつきあってて、ろくじゅうきゅうみたいなこともしてるんだって」。「ろくじゅうきゅうって何?」「なんかね、こういうこと」。まどかちゃんは、わたしの机に指で69という数字を書きながら、「コッチが頭で、コッチが足」と説明してくれた。その瞬間、いつもの何でもない日常は、衝撃的な休み時間に変わった。「え、そんなことして、何になるの?」「知らない」。なぜ、まどかちゃんは、そんなことをわたしに教えてくれたのか。そもそも、なぜそんなことをまどかちゃんは知っているのか。わたしの頭は軽くパニックを起こしていた。

 その日は早く家に帰って、机の奥の引き出しから、秘密の自由帳を取り出した。この秘密の自由帳は、わたしの妄想と疑問がパンパンに詰まったノートで、小学生の頃、ずっと大事にしていた。(中学生になってそのノートを取り出してみたら、2ページ目に「人前でお漏らししたらどうなる?」というテーマで、絵が描かれていたのだが、まずそのテーマ設定も気が狂っているし、さらに、漏らしている女の子の顔が引くほど笑顔だったので、自分で自分が怖くなり、すぐに捨ててしまった)

 自由帳を開いて、つんくとなっちを描いた。つんくが「6」で、なっちが「9」だ。そのあと、じーっとその絵を見つめてみた。時折、目をつぶって想像を膨らませたりもしてみた。だが、良さがまったく分からなかった。なんとなく、親には聞いてはいけないことだろうなと思いつつ、大人は訳が分からないなと嘆いてみた。

 

 翌朝、服を着替えようとタンスを開けた。その時、見覚えのある数字が、でーんと目に入ってきた。わたしのお気に入りの、深緑色に、ところどころチェック模様の入ったトレーナーに、でかでかと「69」というプリントがしてあったのだ。わたしは、週に2回は、そのトレーナーを着て学校に行っていた。まどかちゃんは、「そのトレーナーはやばいよ」ということを伝えるために、つんくとなっちを引っ張り出して、「69」の意味を教えてくれたのだ。もしかしたら、近所のジャスコかどこかで、父母父兄たちが、「69」を着ているわたしを見かけたから、まどかちゃんを通じて教えてくれたのかもしれない。

 

 まどかちゃんがいなかったら、わたしはきっと高校生くらいまで、その「69」のトレーナーを着続けていただろう(なんせお気に入りだったから)。まどかちゃんのおかげで、わたしは1つ大人の階段を上り、同時に、なぜウチの親は、わたしに「69」のトレーナーを買い与えたのか、その謎だけがいまだ解決せぬまま残っているのである。

仕事をできるように見せる人

 社会人になって、もうすぐ丸5年。
その間に、毎日暴言を吐かれた時期もあったし、会社に行けなくなったこともあったし、自分の父親くらいの年齢の上司に土下座もした。
 そんな悲惨(たぶん、世間的には悲惨だろう)な社会人生活を過ごし、先日転職をした。転職する気はさらさらなかった。ただ、目の前に転がってきたチャンスを、自分のものにした。いや、ものにしてしまった、という言い方が正しいのだと思う。とにかく、まさに“棚からぼた餅”、人生の転機というのは、こうしてやってくるものだと身をもって知ったのである。

 転職して良かったことは、大きく分けて2つある。
 1つは、仕事が楽しくなったこと。仕事には楽しい面があるということに、5年働いて初めて気がついた。  日々、自分の中にある思いや希望を、具体的に、時に抽象的にアウトプットしている。これが、楽しいのだけれど、意外と大変。自分の心が枯渇するのではないか、という恐怖が少なからず付き纏う。前の会社にいた頃、「本やテレビや映画や音楽、何でもいいからよく見るようにしなさい」と口酸っぱく言われていた意味が、ここに来て分かった。アウトプットするというのは、自分との闘いなのだ。
 そして、もう1つ良かったのは、自分の働き方を反省して、活かすことができていることだ。「働く」という字は、「人が動く」と書く。人が動いているのだ。自分の思い通りになんていかないし、それでも、人と一緒に進めていかなくてはいけない。それが「働く」ということ。そのことを強く意識できるようになった。

 今、わたしの周りに、仕事をできるように見せようとしている人がいる。見栄を張ったり、知ったかぶりをしたり、見ていて非常に痛々しい。そう思ってしまうのはなぜか。その姿は、昔の自分のようだからである。
 5年間、社会人をやって、確信を持った事実がある。「仕事をできるように見せる人に、仕事ができる人はいない」。なぜ彼らは、「仕事をできるように見せてしまうのか」。それは、誰からも「仕事ができる」と思ってもらえていないことに、自分自身が薄々気がついているからだ。自分ではできているつもりでも、他人はそう見ていない。そのギャップを埋めるために、自分から「できます」感を出してしまうのだ。

 しかし、今なら分かる。仕事ができる人は、そんな浅はかなことはしないのだ。その理由は2つあるとわたしは考える。
 1つ目は、自分にとっての得を考えていないから。仕事の結果は、自分に返ってくるべきものではない。まず会社組織に返ってくるものだ。会社に利益が出て初めて、その結果は、自分の評価にも繋がる。自分が自分が、となってしまうと、どうしても視野は狭くなる。広い視点で、会社にとっての得を考えることが、そこに所属するものの仕事なのだ。
 2つ目は、「仕事をできるように見せる」ことは、とてもリスキーだと分かっているから。最初は、「あの人は仕事ができそうだ」と周囲も期待するだろう。しかし、上がったハードルは、簡単に下がっていく。周りはそんなにバカではない。周囲の考えていることと違うことを1つする度に、「期待外れ」のレッテルを貼られていく。
 それならば、最初から「できる人」に見せる必要なんてない。学生時代に、ヤンキーがちょっと良いことをすると、評価がうなぎ上りになった、あの法則を利用した方が賢いのである。

 先月は、結婚について書いた。今月は仕事。27歳は、思っていた以上に、考えさせられることが多い。考えすぎて、自分の人生において絶対に見ないだろうと思っていた、『セックス・アンド・ザ・シティ』はもうシーズン3まで突入してしまった(これが意外と参考になるのだ)。

 来月は何に頭を悩ませることになるのだろうか。その時にもまだ『SATC』のキャリー、ミランダ、シャーロット、サマンサにお世話になっているのだろうか。27歳は始まったばかりだ……

27歳にとっての結婚

 先日体験したことが、後の自分に影響を与えそうなので、記念にここに記しておく。ジャンルでいうと、「結婚」についてだ。

 高校の頃にバドミントン部に所属していた。部員は、同学年女子だけで18人。ここまで大人数である割に、みな付き合いは続き、卒業してからも年に1〜2回は会っていた。そのグループが、今年の頭に起きた、ある出来事がきっかけで、空中分解の様相を呈することになってしまったのである。

 事態は、集まりの中の1人が、他の部員の結婚祝いに関するLINEをまったく返さず、金銭絡みの問題に繋がってしまったことに端を発する。部の何人かでその1人に連絡を送り、やっと返ってきた返事が、「わたし結婚するから」であった。これには呆れかえってしまった。

 いや、正直に言うと、呆れかえった後にも、私の中には、今まで感じたことのなかった思いが沸き上がってなかなか消えず、自分でもモヤモヤ、よく掴めないような心情になっていた。

 まず感じたのは、「連絡くらい返せよ」であった。これは人として当たり前のことだと思うので、まあ妥当な感情ではないだろうか。

 次がきっと厄介なのだが、その後感じたことは、「悔しい」だった。これだけ周りに迷惑をかけておいて、当の本人は「結婚するんで〜」とどこ吹く風。彼女にはそんな自覚はないのだろうし、直接そんなことを言われたわけでもないが、わたしはこの返事に、「結婚祝いとか勝手にやってればいいじゃん。ま、わたしは結婚して幸せになりま〜す」という彼女の宣言を読み取った。

 これが、たとえば、「みんなでお金を出し合って、美味しいお肉を食べよう」ということであれば、1人から返信がなくても、やっときた返事に「もう食べちゃった!」と書いてあったとしても、そこまで腹を立てることはなかったと思う。「それなら早く言ってよ〜(笑)」で終わっていただろう。

 しかし、今回の件は、まったく事情が違った。この一件で、わたしは「結婚」というワードに執着している自分がいることを、初めて生々しく実感し、そして、困惑した。

 

 そして、数日後、わたしは、また結婚について触れ、考えさせられることになる。

 

 1月中旬、実家に帰省し、友人数人に会った。そこで、その場にはいなかった、ある友人の話を聞いた。その友人は顔が可愛く、学生時代モテていたように記憶している。しかし、今は恋人がおらず、結婚に対してものすごく焦っているらしいとのこと。

 わたしは、その彼女のことを好いてはいなかったので、「ふーん」程度で聞いていたのだが、つい「なんで、そんなことになったんだろうねぇ」と口走っていた。わたしは彼女に恋人ができない理由を考え始めていたのである。

 そこから、アラ探しが始まった。「あの子は、世界が狭いから」「自分の可愛さにあぐらを掻いて、努力してこなかったから」「常識がないから」。

 今振り返ると、なんて下品なことをしていたのだろうと思う。そんなアラ探しは、本人から「なんで、わたしには恋人ができないのかな?」と聞かれて初めて、本人に伝えてやればいいことである。

 結局、結婚に焦っている友人のアラを探して、自分より精神的に不自由している人がいることに、安心したかっただけじゃないのか。そう考えると、とても落ち込んだ。

 「女」を振りかざし、赤裸々、自虐を売りにしたエッセイと、何も変わらない。今、わたしの中に渦巻いている「結婚」は、実体がなく、自分から他者への評価を左右する“はかり”のようになっている。

 誰かに選ばれている女、誰にも選ばれていない女。

 この惨いジャンル分けが、おそらく、27歳女のリアルなのだ。