西加奈子『サラバ!』
新宿の紀伊國屋書店に行ったら、西加奈子さんの本が溢れていた。
ご多分に漏れず私も西さんが大好きだ。
西さんの本は一言でいえば、愛だ。
プロレスラー・飯伏幸太は、その類い希なる身体能力から繰り広げられる、
余りにファンタスティックな技の数々をもって、
「夢の人の形をしている」と評されているが、
それで言うと西加奈子は「愛が人の形をしている」んだと思う。
西さんの愛は、対人間だけでなくて、対動物だったり、対社会だったりする。
どうにもならないことも、一緒に悩んで、最後には「ええねん」と言ってくれる。
そう考えると、西さんは「小説界のウルフルズ」とも言えるかもしれない。
西さんの著作で、前回の直木賞受賞作『サラバ!』も傑作だった。
簡単に言うと、主人公の成長物語なのだが、物語の佳境では主人公は30代半ば。
30代半ばなんて、もう立派な中年男性な気がするが、違う。
彼は30代半ばにして、社会と関わりを持って生きていくうえで最も大切なことを知る。
ここから自分語りになってしまうので恐縮なのだが、
私は1年365日のうち360日、「どうやったら会社を辞められるか」を考えていたことがある。
そこまで考えても、辞められなかった理由。
それははっきりしたものではなく、何となく怖かった、ということだ。
次の仕事のこととか、親への説明とか、そういうことではないのは分かっていた。
ただ漠然と怖かった。
しかし、今なら分かる。
私は会社の人たちから「ペケ」を付けられるのが怖かったのだ。
社会人になったら、自分の行動、考え、すべてに「ペケ」を付けられた。
毎日のように罵声が飛んできた。
日常的にパニックを起こし、突然涙が止まらなくなることもあった。
最初は親や友人に愚痴を言っていた。
そのうち、言うことも「ペケ」だと思って言えなくなった。
Twitterだけが気持ちを吐ける場所だった。
どこにも居場所がない。ネット上なら誰に見られても構わないと思った。
髪の毛が白髪だらけになって染髪した。追いつめられていた。
ペケを付けられたくない一心で、必死で人の顔色を伺った。
だけど、人の正解なんて、私には読み解くことができなかった。
さらに罵声や陰口は飛ぶようになった。
だんだん、考えることを放棄するようになった。
私は私であることを放棄し始めた。
そんな生活が2年ほど続いたある日、会社に向かう途中に、はたと気がついた。
「わたしは、猿だ。」
人に言われるがまま、されるがまま、
すべての悪口を受け止め、涙を流し、けれども反論はしない。
ただ、一時の気持ちよさだけを求めていた。
必死に生きる猿だった。 愕然とした。
その日から、私は「考える」ことを取り戻すことにした。
長い間、自分で決めることを止めていたので、何かを考えて決めるのは、ものすごく苦労した。
今でも本当に物事を考えられているのか、自信がない。
そんな時に『サラバ!』を読んだ。『サラバ!』の最終章には、こんな一節がある。
「自分の信じるものを人に決めさせてはいけない」
その一節は光になり、道になった。
そう、私が探していた他人の正解は、私に決められるものではない。
そして、私の信じるものも、他人に決められるものではなく、
他人の冷たい声で無くなってしまうようなものは、そもそも信じ続けられるものではないんだ。
何を大事にしたいのか。
優先順位をつけるのは、非情ではない。強さだ。
その決定に責任を持つ。それが強さだ。
『サラバ!』は、過去の自分との訣別。
「自分の信じるものを人に決めさせてはいけない」
その一節を読んで、私は泣いた。電車の中だったけれど、涙をこらえられなかった。
怪訝な顔で見る周囲の人たちに、
せめて「この本はそんなに泣けるんだ、買おう」と思ってもらえるように
『サラバ!』の下巻で顔を覆った。
上下巻であることに怯まず、読んで頂きたい1冊。